即興流しとは?

伝承の曲に限定せず、また伝承上の技巧を捨て、無技巧に至る境地。
それは尺八という限られた音楽のための楽器を抜けて、「音」そのものの概念を拡大しようとの試み。
そのためには曲目を限定しない。有限化された曲にとらわれない。ありのままの自然の姿を表現する。

中国六朝時代の詩人・陶淵明が「無絃の琴」を座右において愛していたというのも暗示的(荘子・斉物編)

遠音 – Tōne

我々の先人が感じた最も美しい音、いわゆる「遠音」と、地無し延べ管尺八の響きについて。この「遠音」の定義を言葉で表現することは難しいが、一つ言えることは、東洋の音楽は西洋の音楽とは全く違う考え方の上に成り立つ。 この考えを確と認識することが大事。それには西洋楽器と違う日本の伝統楽器。そこで忘れてはならないものに「サワリ」がある。「サワリ」とは日本の古い文献にもあるが、セミの鳴く音と等しく自然に近いものとも書かれてある。 一つの音自体が非常に複雑で、自然界の色々な音と融合するもの。本来は独奏あるいは一対一で演奏していた邦楽器。ところが近代になって伝統楽器を使った現代邦楽は、大勢で合奏したりすることが当たり前になってきた。このことから、邦楽器による大合奏というものは、自分の楽器から出るこのサワリを含む「音色」を聴きだすのは大変難しいことになる。また、この音色について考えると、音色というのは「音量の大きさ」と非常に関わりがあり、尺八に地を入れ管内を調整して、楽器として調製し、音量を必要以上に大きくしてしまうと失うものが多い。それは音を大きくすると、小さい時に出ていた音の「色」が無くなってしまうことにもよる。そのため、地無し延べ管尺八はなるべく自然の竹に手を加えず、竹そのものが鳴っているというストレートな音でなく、竹の周囲全体が丸く包み込まれるような不思議な音色を大事にする。音源がはっきりしない何処からか聞こえてくるような音。たとえば、山の中で鳥が鳴いているときに、どの木のどの枝にいるかわからなかったり、どこからともなく聞こえてくる川のせせらぎや、遠くから聞こえてくる滝の音、風の響きetc,・・しんしんと降る雪の音・・etc,etc.このような音を日本では古来より「遠音」という。

About half a century ago, Ranpo-kan 1.8.

半世紀程前になりますか、父が病気で亡くなり、翌年に父の妹、モダンダンサー奥田敏子が兄の追悼公演に使用した音楽が1966年、できたてほやほやの武満徹作曲のエクリプス(尺八・横山勝也、琵琶・鶴田錦史)。私の母方になる祖母が浜松にて山田流の筝の先生をしており、よく三曲の下合わせの練習に子供(勝也)を連れて来られた方が横山蘭畝。その不思議な縁で私の最初に出あった尺八が1尺8寸の蘭畝管。その後は、地無し延べ管尺八(法竹)の無限なる音色の世界に魅せられる。

 法竹

有音から無音

無音へ至る寸前の状態が余音

余音は雑音力が強い程に妙

竹藪の折れ竹が風に当たりて鳴るような雑音

雑音が整備され、整音となり、

整音が余音となって無音に至る

音の永遠味と根本性を感じるは

 無音  

Nerisajiとは?

Atsuya Okuda 11 August 2020

Sajiは漢字で薩慈
その他に薩字、もしくは佐字、沙志、些志などとも書かれる。
九州博多一朝軒が伝えた鈴法であり、久留米の虚無僧寺林棲軒の鈴慕も、この鈴法から生まれたものといわれている。
薩慈の文字は、一曲を己に徹すると共に、他もまた之を済度する。
これは菩薩が音で慈悲を示し、苦海にある衆生を済(すく)い出す。
その大乗精神を現はそうとして大菩薩ともいわれ、練りに練りこんだ最も難苦な曲から
練薩慈Neri−saji
といわれる。

代々木能舞台

地無し延べ管尺八2尺9寸吹禅2019年11月2日於:代々木能舞台    
(写真撮影:和泉澤賢司)

Atsuya Okuda 8 September 2020 on Facebook

新型コロナウイルスいまだ収束の気配がない4月頃から始まったコロナ禍による長〜い自粛の状況下…..5月20日自宅に於いてYoutubeに初参加!ーーーーーーーーーーーーーーFacebookの思い出からコロナで自粛中😷お稽古も先月の非常事態宣言以来スカイプを除いて殆ど休眠中😌初めての自撮りに挑戦😁2尺6寸地無し延べ管尺八「真虚霊」―真法流―最初はスマホの操作のやり方が解らず四苦八苦😅吹禅を始めて録音初めて気付く😮東隣は神社で、静かな住宅街だと思っていたのにこんなに外が賑やか🙄騒音💢💢カラスやら、、通り過ぎるジェット✈️✈️やら吹禅定具🙏🙏

越後三谷 Echigo Sanya

越後三谷 Echigo Sanya地無し延べ管尺八/2尺9寸堀田侍川→斎川梅翁→岡本竹外師より相伝越後明暗寺最後の住職となった堀田侍川。その流れには、相馬藩の喜染軒出身の神保政(正)之輔(助)がいる。明治22年小樽市で会合し、有名な神保三谷を合作した。尺八の名手で、一時、越後明暗寺に住したことがあり、門弟数千ともいわれていたが、堀田侍川とは不和となり、越後の各地を転々とし、晩年は福島地方にいたという。因みに、この曲は別名、奥州薩字、奥州三谷等ともいわれ、主に西の方では神保三谷として伝わり、近代では産安と、広く伝わる。